2007年06月26日
昨年度の怒涛のクリエイションから早3ヶ月が過ぎ、
自分とプロジェクトのこれからについて、
もうひとつ大きな山を越えるためのイメージが見えてきたように思う。
それは主に身体というテーマをめぐって、
音楽としての行為・現象のエネルギー感や運動・存在について考えてきたことの先に、
また「音楽」とは何かを考えるところに立ち戻るかもようにも見えるし、
または「音楽」とはその歴史そのものであるという側面のその濁流に飛び込んでみたら、
もっといろんなものがキコエテキタ、というのが今の実感に近い言い方かもしれない。
だから今は耳が本当に楽しい。
ひとりだとおそろしくずぼらなわたくしだけど、
いまは、
ひとりじゃないとおもう。
自分とプロジェクトのこれからについて、
もうひとつ大きな山を越えるためのイメージが見えてきたように思う。
それは主に身体というテーマをめぐって、
音楽としての行為・現象のエネルギー感や運動・存在について考えてきたことの先に、
また「音楽」とは何かを考えるところに立ち戻るかもようにも見えるし、
または「音楽」とはその歴史そのものであるという側面のその濁流に飛び込んでみたら、
もっといろんなものがキコエテキタ、というのが今の実感に近い言い方かもしれない。
だから今は耳が本当に楽しい。
ひとりだとおそろしくずぼらなわたくしだけど、
いまは、
ひとりじゃないとおもう。