2007年09月13日
種子田のブログでも触れていますが、
オイリュトミスト松山由紀さんのドイツ公演のために、
松田弘之さんの能管の演奏を録音しました。
この楽器を録音することの難しさはどうしようもありませんが、
これまでの松山さん作品で生演奏されているビデオを拝見して、
(実際に舞台を拝見できなかったのが残念ですが)
その関係性をいくらかでも表すような音の姿在り様を探っていくのがポイントです。
録音機器のモニタを睨みつつヘッドフォンを通してじっと聴き入っていると、
ホールの音響とは別の何か気流のようなものがくっきりと感じられて、
その不思議な存在感とダイナミックな運動がとても気になっていました。
また、身体のエネルギーと響きのエネルギーとが思いがけない関係にあり、
何か効率の良い道具という、いわゆる楽器に対しての奇妙な思い違いを正された思いがしました。
その気流に集中していると、とてつもなく大きな濁流のごとき管に太ーい風が通っているイメージが浮かんで、とても気持ちが良かった。
録音が終わってから、いろいろお話を伺い、
その能管の由来やそれと対峙する松田さんの静かな様子に、
感じていたものひとつひとつが解明されていく気がしました。
音楽や楽器や演奏することや、またそれらを引き受け伝えていくこと、
そしてそれを広く分けていくこと、
そうして平たく自分が空になったところに、
本質的なものがただ在るのかもしれない。
それは我々の伝統に関してだけでなく、
新しい価値を生もうとすることにも、外部の文化・芸術に関わっていく時にも、
同様なのだと勇気付けられる気がした。
言葉は悪いけれど、「のろい」というのか。。
それを解いてしまったことへの反動をどう収めていくのか、
そしてそこからどこへ行くのか、考えてみたい。
オイリュトミスト松山由紀さんのドイツ公演のために、
松田弘之さんの能管の演奏を録音しました。
この楽器を録音することの難しさはどうしようもありませんが、
これまでの松山さん作品で生演奏されているビデオを拝見して、
(実際に舞台を拝見できなかったのが残念ですが)
その関係性をいくらかでも表すような音の姿在り様を探っていくのがポイントです。
録音機器のモニタを睨みつつヘッドフォンを通してじっと聴き入っていると、
ホールの音響とは別の何か気流のようなものがくっきりと感じられて、
その不思議な存在感とダイナミックな運動がとても気になっていました。
また、身体のエネルギーと響きのエネルギーとが思いがけない関係にあり、
何か効率の良い道具という、いわゆる楽器に対しての奇妙な思い違いを正された思いがしました。
その気流に集中していると、とてつもなく大きな濁流のごとき管に太ーい風が通っているイメージが浮かんで、とても気持ちが良かった。
録音が終わってから、いろいろお話を伺い、
その能管の由来やそれと対峙する松田さんの静かな様子に、
感じていたものひとつひとつが解明されていく気がしました。
音楽や楽器や演奏することや、またそれらを引き受け伝えていくこと、
そしてそれを広く分けていくこと、
そうして平たく自分が空になったところに、
本質的なものがただ在るのかもしれない。
それは我々の伝統に関してだけでなく、
新しい価値を生もうとすることにも、外部の文化・芸術に関わっていく時にも、
同様なのだと勇気付けられる気がした。
言葉は悪いけれど、「のろい」というのか。。
それを解いてしまったことへの反動をどう収めていくのか、
そしてそこからどこへ行くのか、考えてみたい。