2005年03月

2005年03月29日

昨年末から打合せやリハーサルを重ねてきた、
能美健志&ダンステアトロ21の新作「四季」の全公演が終了。

長いようで短かった。
本番がひとつ終わるたびに、さみしい気持ちがした。

本作品に参加するにあたっては、わたくしはまず、シーンごとに声を使い分けることや、
音やダンサーとの関係においてフレージングを即興で行うことを出発点とした。
それがリハーサルを重ねる毎に、舞台上でどのような身体でいるか、
ということと声のパフォーマンスとの関係をすごく考えなくてはならなかった。
作品の中での自分の役割を考えすぎて、スタティックな状態を保とうとすると、
とっても不自然でぎこちない歩き方になってしまったり、
時間軸にとらわれすぎたり、声と身体がバラバラになってしまう。。
そんなリハーサルが続いて、ずいぶんドツボにはまっていたところ、
通しを見てくださった方に、ずばり指摘され、アドバイスをいただたいて、
うたっている身体そのものに立ち返ることができた。
身体を忘れることで、身体を取り戻し、すごく自由に動けるようになっていった。
ごく自然なことなのかもしれないけれど、
わたくしはこの道をたどることによって、いま自らの可能性が拡がるのを感じている。

作曲をするときにも、身体を持つこと、その身体をどう表すかを考えることが、
作品にもたらす力はとても大きいと思う。
特に、わたくしたちが行っているような方法においては。
今回の経験を次回の主催公演に生かしていこうと考えている。

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2005年03月12日

アレッシオ・シルベストリン「インスタレーション・パフォーマンス with 津村禮次郎
3月12日19:30/代官山ヒルサイドプラザ

ダンスビエンナーレでの「デリヴァレ」のほか、一気に3作品を観ることが出来た。
音や美術・映像などすべてを自ら手がけているので、
作品そのものの佇まいがとてもピュアな印象。
しかし、会場の条件に対して、作品空間の規模が対応しているのかという点で、
疑問や限界も感じたし、その状況に観客の意識が寄り添ってしまうことに興味を感じた。

動きについては、機会を重ねるたびに津村さんとの関係にダイナミックな対話とこまやかではかないすれ違いが効果的にあらわれ、複雑な色彩を帯びていくようで、
観るたびに惹きこまれるものがある。
一方では、津村さんの朗読の扱いに関しては、その文体や内容・朗読している状況などが、
ごく表面的なアイデアにとどまっているため、作品そのものと乖離してしまっているように感じる。

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